Scuba Diving Pics 2011 Taken By JELLYS TK and Cana
PALAU LAND Pics
Tour Data
date:20/03-26/03/2011
point:inside airplane,guam airport,palau,peleliu island
Air temp:about 28degrees celsius
Water temp:xxx
Max Depth:xxx
Land Pics
Camera
Macro:Canon EOS 7D・Panasonic TZ-10・Ricoh CX2

飛行機内より

グアム国際空港

猫

Aqua Magic

Aqua Magic横のガススタ

ボートより

ランチタイムに上陸した島

JellyFishLakeの島

JellyFishLakeに向かう山道

火鍋

ホテル前

ホテル前

ホテル前

水面休息中

ホテルのバルコニーから

ランチタイムに上陸した島

島に停泊中

ブルーコーナー水陸境界線

コロールの夜

パラオ共和国国旗

ペリリューツアーの波止場

ペリリュー島港

日本軍慰霊碑

日本軍ペリリュー指令部跡

放置された日本軍戦車

ペリリュー神社

石碑

石碑

ペリリュー島より

椰子の木

バナナ
【ペリリュー神社の石碑】
Tourists from every country who visit this island should be told how courageous and patriotic were the japanese soldiers who all died defending this island.
Pacific Fleet Commander in chief (USA) C.W.Nimitz
【裏面は日本語】
諸国から訪れる旅人たちよ この島を守るために日本軍人がいかに勇敢な愛国心をもって戦い そして玉砕したかを伝えられよ 米太平洋艦隊指令長官 C.W.ニミッツ
ペリリュー島の戦い −Webより抜粋−
ペリリュー島民は日本とともにアメリカと戦う事を決意したという。
しかし日本軍はこれを押し止め船舶の乏しい中、空襲を避けつつ夜間を利用して全員をパラオ本島へ避難させた。
日本兵と仲良くなって日本の歌を一緒に歌っていた村人は仲間たちと話し合った。
そして村人たちは大人も子供も一緒になって日本軍とともに戦おう。
そう決めた彼らは代表数人とともに、日本の守備隊長である中川州男大佐のもとを訪れる。
平素、温厚な中川隊長なら、自分たちの一緒に戦うという頼みを聞いてくれるに違いない。
そして中川隊長に「自分たちも一緒に戦わせてほしい」と申し出た。
それを聞いた中川隊長は、瞬間驚くような大声をあげた。「帝国軍人が、貴様ら土人と一緒に戦えるか!」
…驚いた。日本人は仲間だと信じていたのに、みせかけだったのか…。
村人たちは、日本人に裏切られた思いで、みんな悔し涙を流した。
そして、日本軍が用意した船でパラオ本島に向かって島を去る日がやってきた。
港には日本兵はひとりも見送りに来ない。
村人たちは悄然として船に乗り込んだ。
そして、汽笛が鳴る。
船が岸辺を離れた…
次の瞬間、ペリリュー島に残る日本兵全員が、浜に走り出てきた。
そして一緒に歌った日本の歌を歌いながら、ちぎれるほどに手を振って彼らを見送った。
そのとき、船上にあった村人たちは、わかった。
日本の軍人さん達は我々村人を戦火に巻き込んではいけないと配慮したのだ、と。
涙が出た。
岸辺に見える日本兵に向かって、村人たちは号泣しながら手を振った。
誰もが泣いた。ちぎれるほどに手を振った。
ようやく戦闘が終わったペリリュー島へ戻った住民たちは、恐るべき光景を目の当たりにした。
米軍の激しい絨毯爆撃により、その形を変えていた珊瑚の島と、そしてそこに転がるおびただしい数の日本兵の遺体。
島の人々はこれを見て涙を流したという。
「アメリカ人は、日本人の遺体には見向きもせず、自国兵の遺体だけを整理した。ここに征服民族の本性を見る」として、島民はこぞって日本軍の遺体を弔い、墓地を作ってくれたのである。
そして日本人が、いつ訪れても良い様にと、その後も墓地の清掃に心掛けてくれていた。
1981年(昭和56年)一月、パラオ共和国の憲法が発布された。
ペリリュー兵士の歌「ペ島の桜を讃える歌(作詞者:オキヤマ・トヨミ氏、ショージ・シゲオ氏)」も作られた。
一
激しく弾雨(たま)が降り注ぎ オレンジ浜を血で染めた
強兵(つわもの)たちはみな散ってペ島(じま)は総て墓地(はか)となる
ニ
小さな異国のこの島を死んでも守ると誓いつつ
山なす敵を迎え撃ち弾(たま)射(う)ち尽くし食糧(しょく)もない
三
将兵(ヘいし)は“桜”を叫びつつこれが最期の伝えごと
父母よ祖国よ妻や子よ別れの“桜”に意味深し
四
日本の“桜”は春いちど見事に咲いて明日(あす)は散る
ペ島(じま)の“桜”は散り散りに玉砕(ち)れども勲功(いさお)は永久(とこしえ)に
五
今守備勇士(もののふ)の姿なく残りし洞窟(じんち)の夢の跡
古いペ島(じま)の習慣で我等勇士の霊魂(たま)守る
六
平和と自由の尊さを身を鴻(こな)にしてこの島に
教えて散りし“桜花”今では平和が甦る
七
どうぞ再びペリリューヘ時なし桜花(さくら)の花びらは
椰子の木陰で待ち佗(わび)しあつい涙がこみあげる
八
戦友遺族の皆さまに永遠(いついつ)までもかわりなく
必ず我等は待ち望む
桜とともに皆さまを
ペリリュー島に桜の木はない。 桜を見た事のある者は皆無といっていい。
彼らのペリリュー島の玉砕戦を日本の国花・桜に託し、見事に謳いあげた歌詞である。
サクラ・サクラという最後の電文を打って、文字通り集団の桜花のように散っていった彼ら一万余の英霊も、もって冥することが出来るといえる。
翌年1982年(昭和57年)、「青年神職南洋群島慰霊巡拝団」20名が船坂弘氏の助力を得て、ペリリュー神社が建立された。
日本から運搬した材料を使い、島民の多大の協力を得て、10日間を費して完成した。 御祭神は天照大御神と戦没者の一万余柱の「護国の英霊」である。